先日、なにわのにわに遊びに行った後、三四郎単独ライブに行った。
デビューも決まってより一層煌びやかになった7人から浴びたことのないほどのキラキラを分けていただき、
久々の草月ホール(片山さんの三者三様以来)へ向かい、客入れの定番である三味線の音色と「道徳の日本男児」といういかついタイトルを眺めながら、振り幅が大きく可笑しい1日だったなーと思った。
そういえば、私ってどんな趣味道を歩んできたのだろう。
消えかけている記憶も沢山あるが、
思い出せるうちに書き残してみる。
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小学2年生の時に叔母から「あんた好きでしょ、あげる」と言われてもらったKinKi KidsのBalbum初回限定版。2人を模した?ピンクと水色の人形がついていて大きな箱だった。
それまでに手にしたことのあるCDは
「めざせポケモンマスター」と「タイミング(ブラックビスケッツ)」だ。(8cmのやつ)
初めてのデカいCD、しかも謎の人形までついたバカでかい箱のやつ。
しかも”私がもらった“のだが小2の持ち物は当然母親が管理するため、母親に渡されたCDは家に帰ると棚の高いところにしまわれていた気がする。
そこからどのようにして「聴く」までに至ったかは全く覚えていないが、カセットテープにダビングした途端狂ったようにそれしか聴かなくなる。そしてその後何十年も聴き続けるのだ。
(20年後のある日、硝子の少年はもう100万回聴いたと自負していたら「それでは1日に137回再生の計算だから無理だね」と冷静に注意される日もくる)
KinKi Kidsをテレビで意識して観た事はあったかも定かではなかったが、なんで好きだと思われたのだろう?
1曲目の「スッピンGirl」
英語なんか読めない子供だったので
自信満々に「スッピンゴー」良い曲だな〜と思って疑わなかった、そんな8歳女児だったのに。(誰にも質問しない私って...)
思い出せば、ブーストをかける出来事はいくつかあった。
その1
堂本剛の歌マネが上手いと信じてやまなかったこと。
学校から家が遠かった私はお友達がいない区域に入ると、バカでけえ声で硝子の少年を歌いながら帰った。
本物の堂本剛がやってきたと近所の人が窓を開けて観にくると本気で思った。
毎日歌い窓が開くのを待った。
9歳の女の子の声で、んなわきゃない。
その2
給食の時間に流れた“全部抱きしめて“を歌詞を見ずに小さい声で歌っていると、隣の席のなるいに「なんで全部わかるの、すげー」と褒められたこと。
褒められると伸びてしまう生き物なのだな、人間は。
それを機にまた狂ったように歌詞を覚えるようになる
Girlの読み方と意味を学び、誰かに褒められていたら英語の道に進んでいてかもしれないな。ははは
車に乗るたびにB albumをかけ(母にはキンキばかりいい加減ノイローゼになると止められた)、家ではうちわをギターにして光一ソロのMY WISHをアカペラで弟に披露していた。(弟は現在もその頃の曲は好んで聴くらしい。嫌な思い出になってなくてよかった)
当時どういう意味でもって、2人のことが好きだったかは定かではないが、
堂本光一とは11歳違うけど結婚はできるのか?と誰にも相談せず、1人で考えていた時期はあった。(クラスの中に好きな人的なものはいたから意識せずとも別腹として捉えていたのかは謎)
それ以来、結婚するなら11歳上の人までだな〜という線引きを設けた。
そんな我が娘の様子に気づいてか
母親には「こんな人たち裏ではとてつもない悪態をついている」と何度も説かれていた。
この時期の子供にとって母親は人生のルールブックとも言える存在であったはずなのに、
まぁ悪い人間という可能性もあるだろうけどそんなことどうでもいいやと思い、自分の意思で好きで居続けられた私万歳(これが自我の芽生えというやつなのか?)
時を経てKinKi Kidsは嘘のつけない不器用な大人2人組だということが段々と分かってくるんですよね。誰だって悪い面を1つや2つ持ち合わせていることも人生の中で理解していくのできらいになる理由にはならなかった。
今思い出せるのはこれくらいだが、
人生をKinKi Kidsと共に生きてきた。
愛なんてコトバじゃ言えないを聴けば
父親と行った温水プールを思い出すし、
ふらいんぐ・ぴーぷる'99を聴けば
軽い気持ちでこの曲名を運動会のスローガンで提案したら最終選考にまで残ってしまいヒヤヒヤした事を思い出す
情熱を聴けば
中学のダンス発表曲と振り付けを考えてた時、
間奏の激しいダンスをお昼休みに教室の真ん中で恥ずかしげもなく踊ったことを思い出す
キミハカルマを聴けば
高校時代、好きな人の家に向かうバスの中を思い出す
全部最高だし、これからも最高って事で。
なんとも支離滅裂な文章だけど、また暇な時にでも思い出まとめしてみようかな。